1891年春、ニューヨーク・ナショナル音楽院の創立者・理事長ジャネット・サーバーからドヴォルザークに音楽院院長職への就任依頼が届いた。ドヴォルザークに白羽の矢が立った理由は、彼がアメリカにおいても著名だったことがもちろんあろうが、それ以上にサーバー夫人がアメリカにおける国民楽派的なスタイルの音楽の確立を夢見ていたことから、チェコにおけるそれを確立した一人である(と一般に認識されていた)彼を招聘することで、そのような運動の起爆剤としようとした、との説がある(この流れから、「ドヴォルザークが就任を受諾しなかった場合、サーバー夫人はシベリウスの招聘を行う予定だった」との説が流布されたことがあったが、これは根拠に乏しい)。
ドヴォルザークは、初めこれに対して辞退の意志を伝えたが、サーバー夫人の熱心な説得と高額の年俸提示に逡巡した末、同年末に契約書に署名をした。年俸15,000ドルという提示額は彼がプラハ音楽院から得ていた金額の約25倍であるし、彼はこの時13歳を頭に6人の子の扶養を行っていたのである。
サーバー女史からは渡米後の1892年10月12日に第4回コロンブスによるアメリカ発見400年祭で演奏する新作の依頼があった。ジュゼフ・ドレイクの『アメリカの旗』という第二次米英戦争を題材にした合唱曲が当初の依頼の内容であったが、テキストの到着が遅れ代わりに作曲されたのが『テ・デウム』であった。1892年ブレーメンから船に乗り、9月27日にニューヨークに到着した。ドヴォルザークは街の印象をこう書いている。
「ほとんどロンドンのような巨大な街だ。(中略)私が流暢な英語を話したのでみんな驚いていた」
アメリカの人々はこの高名な作曲家の渡米を心から歓迎した。当時のアメリカは、音楽については新興国ではあったが、潤沢な資金でメトロポリタン・オペラやニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団、あるいはアルトゥール・ニキシュが指揮者を務めるボストン交響楽団など高い水準の演奏が行われていた。しかし、自国の音楽家育成については緒に就いたばかりで、音楽院自体がその機能を十全には果たしていない状態であった。ドヴォルザークの音楽院院長就任はこうした状況打破に対する期待を持たせるものであった。1892年10月からドヴォルザークは講義を開始した。
1893年1月に着手した交響曲第9番「新世界より」は5月24日に完成するが、4月14日付けの友人宛の手紙の中でドヴォルザークは「この作品は以前のものとは大きく異なり、わずかにアメリカ風である」と書いている。この作品は、ロングフェローの『ハイアワサの歌』に多くをインスパイアされたと言われている。
1893年6月5日、ドヴォルザークはアイオワ州のスピルヴィルという小さな町を訪れた。この街は、ボヘミアからの入植者が住む町で、ドヴォルザークのアシスタント兼秘書を務めるヨゼフ・ヤン・コヴァジークの父親が聖歌隊長を務めていた。この街でのドヴォルザークの様子を「同国人らの中にいるという実感が祖国を思い出させるとともに、故郷にいるような感覚にさえしたようだ」とコヴァジークは回想している。そしてスピルヴィル到着の3日目には新作の弦楽四重奏曲に着手し、6月23日には速くもそれを完成させ、コヴァジーク家とドヴォルザーク家混成の弦楽四重奏団により試演された。これが「アメリカ」四重奏曲である。このような暖かい雰囲気に触れたためか、ドヴォルザークはできあがったスコアを、交響曲第9番や弦楽五重奏曲変ホ長調とともに、不仲であったジムロック社に委ねる気になった。ジムロック社はただちにこれを出版すべくブラームスに校訂を依頼し快諾を得た旨を作曲家に伝えた。ブラームスはこれに「作曲するときの楽しい様子を聞いて私がどんなにうれしく思っているか伝えてほしい」との伝言を添えて、ドヴォルザークをいたく感動させたのだった。
ニューヨークに戻ったドヴォルザークには再び激務が待っていた。1894年4月には、ニューヨーク・フィルハーモニーの名誉会員に推されるという栄誉を受けた。一方、グノー、チャイコフスキー、ハンス・フォン・ビューローといった優れた音楽家の訃報に触れ、さらには父親の病気を知り、1894年3月、ドヴォルザークは敬虔な歌曲集『聖書の歌』を作曲している。この年の夏は、秋には戻り契約を2年間延長する約束で、5ヶ月間の休暇を取り、ボヘミアに帰った。チェコに着くと彼はヴィソカーの別荘に直行し、住民たちの心温まる歓迎を受け、心からくつろいだ休暇を送ることができた。同年、10月ニューヨークに戻った彼は、強烈なホームシックに襲われ体調を崩してしまった。その一方で、この頃サーバー夫人の夫(ナショナル音楽院最大のパトロンだった)が1893年恐慌のあおりを受け破産寸前に追い込まれていたことから、ドヴォルザークへの報酬も支払遅延が恒常化しつつあった。11月8日からチェロ協奏曲に着手し、翌1895年2月9日にこれを完成させるが、これが限界だった。ドヴォルザークはサーバー夫人に辞意を伝え、周囲の説得にもかかわらず、4月16日にアメリカを去ったのである。
帰国後
帰国後もドヴォルザークはしばらく何も手につかない状態にあった。しかし1895年11月1日、プラハ音楽院で再び教鞭を執り始めた。作曲も再開され、アメリカを発つとき未完成のまま鞄に詰め込まれた弦楽四重奏曲第14番も1895年の年末には完成した。1896年3月彼は、最後となる9回目のイギリス訪問を果たす。この直後、ブラームスからウィーン音楽院教授就任の要請を受けるが、これを断った。アメリカ滞在や最後のイギリス訪問を通じて彼は、ボヘミアこそ自分のいる地だと思い定めたのだった。この後、ドヴォルザークは、標題音楽に心を注ぐようになる。カレル・ヤロミール・エルベンの詩に基づく交響詩の連作(『水の精』、『真昼の魔女』、『金の紡ぎ車』、『野ばと』)を作曲したのも1896年のことである。
帰国後のドヴォルザークには多くの名誉が与えられた。1895年、ウィーン楽友協会はドヴォルザークを名誉会員に推挙すると伝えた。同年ウィーン音楽省はプラハ音楽院への援助を増額する際に、ドヴォルザークの俸給を増額するようにと明記している。1897年7月にオーストリア国家委員会の委員となった。この委員会は、かつてドヴォルザークが得ていた奨学金の審査を行う委員会であり、才能ある貧しい若者を援助できることは彼にとってこの上ない喜びであった。さらに1898年には、それまでブラームスしか得ていなかった芸術科学名誉勲章をフランツ・ヨーゼフ1世の在位50周年式典の席で授けられている。
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こうして、さまざまな栄誉を身につけたドヴォルザークであったが、彼にはオペラをヒットさせたことがないという焦燥感があった。そしてチェコの民話に想を得た台本『悪魔とカーチャ』に出会い、オペラ創作に邁進してゆく。1898年から1899年にかけて作曲されたこのオペラは、1899年11月23日に初演されると大成功を収め、ドヴォルザークは、ジムロックからの要請にもかかわらず、他のジャンルには目もくれずに、次の台本を探し求めた。そして出会ったのが、『ルサルカ』であった。1900年4月に着手され、11月27日に完成したこの妖精オペラは1901年3月31日にプラハで初演されて再び大成功を収める。しかし、様々な事情でウィーンで上演される機会を逃し国際的な名声を生前に受けることができなかったことで、ドヴォルザーク自身は決して満足できず、これ以後もオペラの作曲を続けるが、最後の作品であるオペラ『アルミダ』(1902年 - 1903年作曲、1904年3月25日初演)は、初日から不評に終わってしまった。
1901年オーストリア貴族院はドヴォルザークを終身議員に任命し、同年7月にはプラハ音楽院の院長に就任した。しかし多忙のドヴォルザークの院長就任は多分に名目上のものであり、実務や組織はカレル・クニトゥルが執務した。
ドヴォルザークには、尿毒症と進行性動脈硬化症の既往があったのだが、1904年4月にこれが再発。5月1日、昼食の際気分が悪いと訴え、ベッドに横になるとすぐに意識を失い、そのまま息を引き取った。死因は脳出血だった。葬儀はその4日後の5月5日に国葬として行われた。棺はまずプラハの聖サルヴァトール教会に安置された後、ヴィシェフラド墓地に埋葬された。